わたしはよく
「ながら作業」をしていました。
いつからやりはじめたかも
思い出せないほど
毎日の一部になっていました。
(30歳で英語はじめる!
と決めて通勤中に音声聞いたり
してたのもなつかしい…)
通勤こそなくなったけれど
かわりに今は、
キッチンへパソコン持ち込んで
ランチ中も何かしながら
朝食はスマホで何かしながら
つねに何かしてる!!!
で、
ふと、気づいたのです。
わたしは人生を生きていない。
って。
ながら作業はタスク処理
そう気づいた2019年の8月、
一大決心をしました。
すべての「ながら作業」はやめる。
目の前のひとつひとつに
全身全霊をかける。
なんていうと大げさだけど、
目の前のひとつひとつに
しっかり向きあう。
- 食べながら○○する
- 聞きながら○○する
- 歩きながら○○する
ながら作業は、
「効率的に時間を使う方法」
としておすすめされてるけれど
このやり方を何十年と続けてきて、
たしかに
「時間」を「効率的」には使えていたと思う。
けれど、
生産性が高いか?
と聞かれれば、必ずしもYesではなかった。
複数のことを同時作業しても
ひとつひとつに真剣だったか?
と聞かれても、Yesとは言い切れない。
ながら作業のいいところは
複数のタスクを
1回の時間で片付けられること。
マルチタスクが一度に片付くから
自分自身はやった気になるし
やったことで確かに片付いてる。
でもそれは
「タスクを片づけた」
だけだったな~と
いまになって思うのです。
まいにちに潜む、ながら作業
なんてことに気づいて
先に宣言した
「効率化優先をガン無視」しました。
いままでふつうにやっていた
- パソコンを叩きながら夫の話しを聴く
- ランチしながら音声を聞く
- 休憩中に記事を読む
- 朝食中にメールチェックする
- 食事中にチャット返信する
- 散歩中にスマホチェックする
ぜ~んぶ
やめてみました。
毎日のルーティンが
どれもながら作業ばかりで
書きながらびっくりしましたよ…
ながら作業ストップで、しあわせ度アップ
すると何が起こったかというと、、
夫の呼びかけに耳だけじゃなく
しっかり目を見ながら話しが聴けて
お互いがハッピーになれて
流し込んでたランチが
一口ひとくち味わいながらいただけて
そのおいしさにありがとうが湧いたり
朝食でいれたミルクティーの
はちみつの甘さにほっとして
あぁ、今日も平和だなぁ~と感じたり
夫の作ってくれる夕食や
夫の行動すべてに感謝があふれてきて
感極まって涙がでてきたり
散歩中に見上げる空の青さ、
夏から秋へ変わろうとしてる木々の様子や
木の上で遊んでるリスを見て感激したり
しあわせな気もちになって
ありがとうって何度もいいたくなって
感謝があふれてきて気づいたら泣いてた。
なんて変化が、数日で起きました。
するとさらに、
毎日のアタリマエなタスクにも
感謝としあわせが込み上げてきて
おもわず泣きそうになる。
なんて変化がたくさん現れました。
効率化をやめたら
しあわせ感度が爆増しました♡
効率化より気持ちが大切
わたしの場合は、
「効率化をやめる」って決めて
それにそった行動をしました。
そう。
決めて、行動しなければ変わらない。
効率化をやめる!って決めて
効率化をやめました。
いつもの毎日でさえ
選択と決断にあふれてたんですね。
日常のアタリマエな行動は
なにも考えずに体が勝手に反応してる。
条件反射になってるから
行動するのにいちいち考えてないし、
行動前にわざわざ決めていない。
「効率化」という現代の弊害は
「考える」能力を衰えさせるだけじゃなく
条件反射的な行動で
気もちが湧く瞬間を奪ってしまう。
せっかく「感じられる」チャンスなのに。
感じる力の可能性を
失いつつあるのではないかと思うのです。
しあわせチャンスを増やす
- ムダな時間
- ムダな遊び
- 非効率なやり方
から得られる気もちや感情は
「心の肥料」でもあって
なくなれば土壌がやせ細ってしまう。
やせた土壌に豊かな作物は実らない。
これと同じことが
わたしたちの心の中でも行われてるのかな?
と、夏の終わりに気づいたのです。
非効率バンザイ
効率よりも心の豊かさ。
効率よりもしあわせの感度。
しあわせセンサー増やしていきましょうね♡