今朝、ふとおもった大切なこと。 しあわせは、自分で感じるもので、
条件と引き換えにあじわうものではないんだなって。
きっかけは1枚の写真
なんで朝からいきなりそんなことを思ったかというと、 夫はいまカリブ海に浮かぶ
グアドループという島(フランス領)へ出張していて、 見た目はパラダイスだけれど、朝6時~夜中0時まで働くという
ハードスケジュールな時間を過ごしてます。 2週間にわたる出張のなか、先週末はお休みできたらしいんですね。 せっかくここにいるんだから…ということで 「現地の仕事仲間に連れられてシュノーケリングをしてきた!」と
満面の笑みが映ってる写真を送ってきてくれて。
経験させてもらってる
これまでのわたしだったら 「いいな~」
「わたしもそんなパラダイス味わいたい~」 って、若干ひがみにも似たような気もちが湧き上がってきてたんですけど、
今はすっかりその気もちも薄れて、送ってくれた写真をみながら 「(夫を通して)わたしも経験してる♡」 なんて思えるようになりました。 まだ「体験」はしてないけれど、「経験」してる。
実体験ではないけれど、夫をとおして「経験」させてもらってる。 こう思えるようになってからは、 「ズルい!」って思いが
「楽しそう!次はわたしも!」って気もちに変わりました。 これ、わたしにとってはものすごく大きなパラダイムシフトで。
社会の規範や価値観が変わること。発想の転換。コトバンク
自分が感じるしあわせ
前のわたしは、 「一緒に行けなかった自分はかわいそう、つまんない」 とか 「いつもあの人ばかりズルい」
「時間やお金がないからできなかったんだ」 なんて 「足りない自分」「ない自分」にばっかり目を向けていて。 そんなことしてたら
どんどん自分がみじめに、かわいそうに思えてくるのあたり前ですよね。 だって、「みじめな自分」「かわいそうな自分」にばかり意識を向けてるんだもん。
でも今は、 「(まだ体験はしてないけど)写真を通して経験してる」
「写真に映るしあわせそうな夫を見て、自分もしあわせな気もちになる」 「自分が感じるしあわせ」に意識が向いているから、
「みじめな自分」や「かわいそうな自分」は出てこない。 これって、ほかのことにも共通しているな~と、朝から思ったのです。
自分で勝手に「条件」をつけてる
たまたま今回はグアドループからの写真がきっかけだったけど、
日常のささいなひとときでも言えることだなって。
- ○○があるからしあわせ
- ○○を持ってるからしあわせ
なんて、 「○○だからしあわせ」って、自分で勝手に「条件」つけちゃってるんですよね。 そう。 自分で、勝手に、「条件つき」にしちゃってる。
心地いいしあわせだけを味わう
「○○がない=しあわせじゃない」 って方程式が、
これまた勝手にあたまのなか・心のなかで成り立ってて。 だから、なにをするにも 「○○だから、しあわせ」
「○○がないから、しあわせじゃない」 って、勝手に自分で思い込んでる。 この「条件」をなくしてあげると、
そこにあるのはただ「しあわせ」を感じる自分だけが残って じゃあ、何にしあわせを感じてる? と自分にきいてみると、
- 「○○してる自分がしあわせ」
- 「○○な気もちを感じてる自分がしあわせ」
いろいろ出てくると思います。 自分は何にしあわせを感じるのか? がわかってくると、しあわせを感じるための「条件」なんて必要ないんだってことにも気づくので
結果、
じぶんが気もちよく・心地いいと感じるしあわせだけを味わえる。
ね、条件なんていらなかったでしょ?
そんな風に、わたしはわたしと会話したら答えが出てきました。
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