こんにちは、Mikaです。
タイトルがちょっと暗いですね。笑
今日はしんみり…というか、感じたことをそのまま言葉にしてます。
お呼ばれの日曜日
日曜日、知人にランチをお招きいただき、夫とわたしは終日外出していました。愛犬はもちろんお留守番です。
いまでこそ在住日本人のつながりがありますが、もともとこの地域は夫の仕事でやってきた場所。知り合いもいなければ友達もいませんでした。
友達ゼロな時間は1年ほどつづき、週末は基本的に家族の日となりました。エネルギーチャージの時間です。
(スペインにいたときも週末は家族の日だったけど、夫の親友くんたちが入れ替わりやってきたり友達の家へ行ったりで賑やかでした)
で、この日曜日、久しぶりに「交流」があったわけです。
好きな人に会いたい
フランス人のおばあちゃま85歳を囲んでの、やさしい時間でした。
アペリティフで談笑し、ランチで思いっきり食べたあとに、食後のデザート。おなかいっぱいすぎて入らないので、デザートの前に車で海まで出て、海岸沿いをお散歩して。
戻ってきてようやくデザートにありつき、お茶しながらまた談笑して。
この場所まで車で45分。
できれば16時、遅くとも17時には出発しないと…と思っていたけれど、そのスケジュールはいとも簡単に白紙となり、帰路につけたのは結局18時をまわっていました。
愛犬が家で待ってる。
しあわせのど真ん中にいるとき
帰宅したのは19時すこし過ぎ。
わたしたちの帰りを「今か今か」と待っていた愛犬の喜びようはものすごくて、ジャンプしながら走りまわって大はしゃぎ。
毎日わたしと一緒。それに慣れてしまった愛犬はひとりになるのが大嫌い。7時間半もひとりぼっちで相当さみしかったんだなって、この喜びようから見て取れる。
この日の夜はいつもよりちょっとご褒美を多めにあげて、安心しきった顔で夫とわたしの間に座ってる。
この愛らしい安らかな顔を見ているとものすごくしあわせを感じる一方で、いなくなったときのことがふと頭をよぎる。
なんでだろうか…。 しあわせのど真ん中にいるとき、わたしはいつも反対のことを考える。
『この子がいなくなったらどうなるんだろう…?』 と、イメージしにくい「死後」を想像してしまうのだ。
『隣にいる夫がいなくなってしまったらどうなるんだろう…?』 と、変な想像ばかりしてしまう。
しあわせな瞬間に死を考える
なんでだろうか。
なぜわたしは、しあわせを感じているときに限って最悪な状況を思い描いてしまうのだろうか。
悲しみに打ちひしがれているじぶんが容易に想像できて、それが現実に起こり得そうだからまたたちが悪い。
なぜだろう。
なんでわたしはしあわせな瞬間にこそ「死」を意識してしまうのだろう…? と、なんど自問自答をくり返してきただろうか。。
最近はその答えがぼんやりと形を帯びてきた。
ENDを感じる
わたしは怖いのだ。
しあわせに感じる瞬間が永遠に続かないことはわかってる。
人間はだれもに「END」があるから。だからこそしあわせの瞬間は際立つのだし、その経験や想いはわたしの糧になる。
でもやっぱり怖いのだ。
いつか無くなってしまうこの瞬間、愛する人、愛する人との時間が失われていくことが。
「満ちる」と「失う」
それだけわたしは「満たされている」とも言える。
満たされすぎて、このしあわせがすぐになくなってしまう怖さがあるわけだ。
持てば持つほど失うときの恐怖心がめばえるのは、予期せずお金持ちになった人と共通しているような気がする。
「満ちている」という【ある状態】よりも、「失う」という【ない状態】に意識が集中してしまっている。
あるかないかもわからない未来の不安に全神経を注ぐより、このしあわせな瞬間を思いっきり感じまくって未来への糧にした方がいい。
そっか、またおなじ気もちになったら「ある状態」に集中しよう。
「死」を意識するのではなく、「生」を意識しよう。